バブルが終わった日は…1997年11月24日?それ遅すぎない?(´・_・`)

 

そもそも「この日付」がもっと前だったと思ってたんですよね。意外なくらい遅い。自分の実感とはげしくズレがある。

この記事では、当時を知る人たちの証言と、私自身の実感、それにWeb上の情報、書籍の情報など照合し、「バブルが終わった日」に迫ります。

<目次>


1つめのターン「1989年12月29日」

「海の色が変わった」- 野村証券会長の田淵節也からこの言葉を聞いたのは1989年11月頃のことだった。

私が記事として田淵の言葉を引用したのは、90年の2月23日の朝刊だった。(中略)それでもまだ強気論が圧倒的で、一時的な調整とみる向きが多かった。
(永野健二・著「バブル 日本迷走の原点」より)

歴史的評価、経済的分析としては、バブル崩壊がはじまった日は「1989年12月29日、東京証券取引所大納会の日」になるんですよ。なぜなら、その日の終値が過去最高の3万8915円であったことを最後に、株価は、その後どんどん下がっていったからです。

ところがここからが難しいところで、そのあたりですでにバブルが終わったと思った人はおそらく、先の田淵さんなど日本に数人しかいなかったんではないでしょうか。

余談ですが、先の引用の朝刊に先立つこと2日前にバブル経済」という言葉が世に出ています。

バブル経済」というキーワードで検索すると、90年2月21日付の毎日新聞に掲載された記事、「日経連会長、金融界の自制要求 土地へ融資や就職協定順守」が初出である。やはりバブル崩壊後、90年になってからの登場だ。前の日の2月20日に行われた記者会見で鈴木永二日経連(日本経営者団体連盟。02年に経団連と統合して日本経団連が誕生)会長が、「金融界は影響力の大きさを認識せずに、就職協定を守らなかったり、バブル(泡)経済に対して過剰融資をしている」と批判したことを伝えている。
「バブル」を最初に口にしたのは誰? (2ページ目):日経ビジネスオンライン

そして「バブル経済」はユーキャン新語・流行語大賞「1990 流行語部門・銀賞」に輝きました。

http://singo.jiyu.co.jp/old/nendo/1990.html

しかしそれでも多くの日本人は「今はバブル経済なんだぁー」とは思っても「今はバブル崩壊なんだぁー」とはまだまだ、思っていなかったと存じます。


2つめのターン「1991年10月」

株価だけで考えたら、「1991年10月」もターニングポイントになります。1990年、株価は下落を続け、10月1日には2万円を割り、たった9ヶ月で半分近くまで暴落したにも関わらず「一時的現象に過ぎない」「株価は、また上がる」「この好景気は特殊なもので、永遠に終わらない」などと放言するエセ経済評論家なども多かったものです。

その後株価は上下動を繰り返し、1991年10月には2万5千円台まで回復…しかしその後二度と、その水準まで戻ることはなかったのです。

上下動を繰り返している段階ではおそらく、先に記したような、永遠に続いた好景気は世界史上存在しないというサルでもわかるリクツも知らないエセ経済評論家どもが、ドヤ顔で「ほらみろ!株価がまた上がった。この好景気は永遠に続く」などとぬかしてたものと存じます。しかし1991年10月を越えるともう、そんなこと言っていられなくなります。


3つめのターン「1990年3月27日」

タイムマシンでバブル崩壊を防げ!

そもそも、バブルのはじまりを考えて見れば、株価より不動産価格に着目すべきです。

※バブルのはじまりについては前回記事を参照。

そう考えると「1990年3月27日」も重要な日付けです。あの悪名高い「不動産融資総量規制」が発令された日です。

バブルをテーマにしたタイムスリップ映画「バブルへGO!」では、このいわゆる総量規制の発令を食い止めることがストーリーのテーマだったりします。

「終身雇用幻想」がバブルを潰した?

今の経済政策の感覚では、なんで株価が下落を始めていた時期に、明確に「投機熱を冷やす(※Wikipediaの記載より)」ことを目的にした行政指導が行われたのか理解に苦しみますが、これは、当時の世相とマスコミの論調に原因があります。

当時は労働者の大半を占める正規雇用が「平凡なサラリーマン」と呼ばれありきたりのつまらない存在、できればなりたくない存在として扱われていたという、今の時代からすると大変バチあたりな時代でありました。

そんな正規雇用者たちが「終身雇用」に守られていい子いい子して甘やかされて働いていればいつか必ず新築の一軒家を建てられるんだぞ、というさらにさらに天罰必定のバチあたりな考え方が”常識”としてまかり通っていたものです。

それを突き崩す第一歩となったのがバブル期の不動産価格高騰です。「平凡なサラリーマン」とやらが新築の一軒屋を立てるなんて、夢のまた夢となったのです。

”常識”を崩されたバチあたリーマンサラリーマンたちの不満。そして、地上げで愛着のある土地を奪われた人たちの不満。不動産価格高騰への社会的不満、怒りが、渦巻いていたのです。

「狂乱地価」を正す!という”正義”

先に記したように「バブル」という言葉が広がったのは1990年2月以降ですが、それ以前に「狂乱地価」という言葉はありました。おかしい、狂っている、正すべき事態、という認識が広がっていた証左と言えるでしょう。

当時の投機界を知る知り合い達は、やはり「総量規制で潮目が変わった」と口をそろえます。銀行が貸し渋りをはじめた時点で「あ、これは先がない」と投機のトップを行く人たちがさっと撤退します。それを見た周辺の人々が「あ、あの人がやめるってことはアブナイんだ」と思って撤退します。そういう人的ネットワークの情報を持たないがゆえに逃げ遅れた人たちは、強気を崩さないエセ経済評論家や証券マンたちに踊らされるまま、ずるずる傷口を広げていきます。

しかし…

バブル崩壊後に金融機関の破綻処理を行った元大蔵省銀行局長西村吉正によると、総量規制が出された当時は、なぜもっと早く実施しなかったとの批判はあっても、なぜ実施したとの批判は、あのころの状況を知るものからすると理解しがたいとしている。新聞論調でも「景気に配慮、尻抜けも」(日経)、「地価抑制の効果は疑問」(東京)など、手ぬるいとの批判はあったが、厳しすぎるとの批判は無かったと思う、としている。
総量規制 - Wikipedia

マスコミは、いつもこうです。そして「あの敗戦」にも「第2の敗戦」にも、自身の責任は知らぬ顔です。


4つめのターン「1991年6月22日」

よほどバブルの歴史に詳しい人でも、この日に思い当たる人はなかなかいないと思います。ですが、私個人にとっては、象徴的な日です。

この日、映画「就職戦線異状なし」が公開されました。

『空前の売り手市場』と言われた時期の新卒大学生を描いているが、本作の公開時点では既にバブル景気は崩壊していた。現実の世界においては前年比で求人数が大幅に下落しており、同年(1991年度)の新卒の就職戦線は、この映画の中のような状況とは大幅に掛け離れたものであった。
就職戦線異状なし - Wikipedia

ちなみに本作公開前にバブル崩壊。求人率は下落し、実際は就職戦線異状ありまくり……というオチもついた。
映画『就職戦線異状なし』でバブル期のとんでもない就活を振り返る【キネマ懺悔】 - エキサイトニュース(1/3)

この映画を見るとどれだけバブル期の就活が甘かったか…そして、そんな先輩たちを見てのほほんと就活を始めたこの年の学生たちが、思わぬ厳しさにどれだけショックを受けたか、実感できるんじゃないでしょうか。

バブル崩壊は、まずはもちろん投機家たちを直撃しましたが、その影響が一般人レベルに降りてきたとき、真っ先に、若者の雇用を直撃したのです。

んで、その影響をモロにかぶってしまった私なんです(´・_・`)


そして「1997年11月24日」。涙と絶叫の”玉音放送

”小泉以前”から、弱者は切り捨てられてきた

私にとっては、就活期がきた時にもう、バブルは終わりました。

しかしそれは「終身雇用幻想」を守るため、「平凡なサラリーマン」たちの既得権益を守るために、沢山の私の同世代人を切り捨てたためです。切り捨てた結果、日本経済は意外とその後も、しぶとく持つのでした。

地価や株価の下落は、高過ぎたものが正常になっただけで、日本経済はこれからよくなるという論調も多かった。
(中川右介・著「月9 101のラブストーリー」第九章 頂点の果て - 一九九四年)

弱者を切り捨て、バブルは地味に続きました。ざっくり言って半分以上の人は1995年前後には「バブル、崩壊したんかなー」とは思っていた感じではあります。でも損をしたのは投機家だけでしょ?俺関係ない。くらいの意識の人も多かったような気がします。そう思えたのも、弱者を切り捨て経済がある程度維持されたからです。

「小泉のせいで不況になった」だと?(´・_・`)

今回調査を繰り返して見えてきたことは、実はバブル崩壊の影響はいろんなものをちょこちょこ犠牲にして先に、先ぃーにのばされて。時事問題に関心を持たず「元々世の中そんなもんか」と淡々と生きてきた人間は、小泉構造改革のあたりになってようやく激しく悪影響を受けたのではないか、ということ。

弱者を切り捨てたのは、バブル崩壊の世の中、そのものです。で、小泉さんがやったのは、中途半端なコトをだらだら続けるな!やるなら思い切りよくスパっと!とトドメを刺しただけのことです。なのにそこまでの社会の動きに無関係だったあげく、構造改革、全部俺に悪影響が来た!俺がこんなに不幸なのは、全部小泉のせいだ!って…(´・_・`)

ちがいますよ。(ポンと肩を叩いて)バブル崩壊が、そもそもの原因です。因果関係、まちがえないように。

「うわあああーん!」凍りつく日本列島。

1996年ごろまでは不況だ、不況だねー、と言いながらも、世の中、それなりに余裕がありました。が、阪神淡路大震災オウム事件と不穏な出来事は続き、不幸な空気が世の中に蔓延していきます。

そして「1997年11月24日」がやってきました。…そうです!あの”号泣会見”の日です!

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あ、画像をまちがえた((((;゚Д゚)))))))

この野々村さんの号泣会見では日本中が笑いに包まれましたが、1997年11月24日の号泣会見では、日本中が凍りつきました。

この日。山一證券社長・野澤正平氏が自主廃業を発表。「社員は悪くありません。悪いのはすべて経営陣です」と号泣する姿に人々は、慄然としました。くるべきときがきた、という感覚です。とうとうここまできたのか、という感じです。

当時玉音放送」と言われました。バブル崩壊は戦後日本が迎えた「第2の敗戦」であり、敗北を認めず戦いを続けロスジェネたちを”玉砕”させて戦線を維持してきた日本に鳴り響いた、玉音放送。敗北を国民に知らしめた放送があの、号泣会見の報道だったというわけです。

山一證券の破綻と残った12人のビジネスマン なぜ社長の号泣会見に至ったのか - エキサイトニュース(1/2)

終焉。

山一証券の自主廃業を機に、大企業の倒産や不良債権の問題。大量リストラやら、経営不振の金融機関に公的資金を投入するだのそんなの許されるわけねーだろとか。日本の経済界が、一気に荒れます。

永遠に続くと言われたバブルは、このとき完全に過去の出来事となりました。あの禍々しくも華やかな世界。日本が一番ギラギラしていた時代は、歴史の彼方に消えていったのです。

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